出西窯
島根県出雲市
略歴
1947年 5人の青年と2名の賛助者の協力により創業
1949年 民藝運動に参加。地名から出西窯と定める
1950年 河井寛次郎の指導を受け、日常の食器作りを始める。山本空外上人に師事し仏教に集団の理念を見出す
1952年 吉田璋也に師事し、鳥取民藝教団に参加する
1959年 波文様刷毛目鉢大小組で日本民藝最高賞受賞
1983年 黒釉楕円組鉢で日本民藝協会賞受賞。中国新聞社の中国文化賞受賞
1989年 ふち鉄砂呉須釉組鉢で日本陶芸展優秀作品賞受賞
1993年 東京国立近代美術館工芸館で特別展「現代の陶工 山陰の陶窯 出西窯」が開催される
1997年 灰釉櫛目角鉢で田部美術館大賞茶の湯造形展最優秀賞受賞
1998年 「くらしの陶・無自性館」竣工
1999年 海鼠釉切立組平鉢で日本陶芸展優秀作品賞、毎日新聞社賞受賞
2004年 柳宗理デザインの黒土瓶を復刻。柳宗理ディレクション出西窯シリーズの製作を始める
2009年 第20回日本陶芸展特別賞・TOTO賞受賞「外鉄砂釉深組呉須釉鉢」
2012年 創業65周年を迎える
出西窯の器は飾り気のないシンプルなものが多く見られます。こだわりは「道具としての使いやすさ」。器はいずれも手に馴染み良く、陶器でありながら柔らかさや温もりを感じます。食器として主張することなく、和にも洋にも合わせられるデザイン。比較的丈夫で、普段使いの陶器と同じように使えるのも魅力です。
昭和22年、出雲市斐川町出西で、多々納弘光、井上寿人、陰山千代吉、多々納良夫、中島空慧の5人が集まりました。当時19〜20歳の彼らは地元の幼馴染で、全員農家の次男三男。物資も食料も不足している戦後間もない時代の中、生活の手段として「何もないここから、手作りで何かできることはないか?」と考えを巡らせました。
あれこれ模索する中で、この土地の粘りの強い土が焼き物に向いているという話を聞いた彼らは陶芸に目をつけます。とはいえ、陶芸に関して知識も経験もないゼロからのスタート、まずは一から窯を作り、当時出雲市にあった工業試験場の技師に指導を頼み、手探り状態でつくり始めました。
最初は古伊万里や京焼のような美術的価値のある陶芸品を見よう見まねで作っていましたが、ある日窯を訪れた松江の工芸家の金津滋から「君たちの仕事には、美しさも志もない」との指摘を受け、民芸運動を起こした柳宗悦の本を渡されます。
方向性に迷いが生じていた彼らはその本に多大な影響を受け、同じく民芸運動を展開していた安来市出身の陶芸家、河井寛次郎に指導を懇請します。窯を訪れた河井寛次郎から指導を受け、ここで5人の価値観は大きく変わります。
さらには河井寛次郎との繋がりから柳宗悦や濱田庄司、鳥取出身の民芸運動家である吉田璋也、イギリスの陶芸家バーナード・リーチらとも交流が生まれました。民芸運動の重鎮たちからその精神を学び、彼らもまた修行に出て技術指導を受けることで確実に実力をつけていき、試行錯誤を繰り返しながら現在の出西窯のスタイルを築き上げていきました。
窯主を持たず、一つ一つの工程が共同作業で作られる出西窯の器。
どんなに出西窯の名が売れても、高価になってしまっては多くの人に使ってもらえない。ここには個性を打ち出す芸術家はおらず、自分たちの作っているものはあくまでも台所の道具であるという同じ志を持った職人たちの共同作業場なのです。
苦労も困難も喜びも、共同体で分かち合った5人の青年たちの信念は大切に今に受け継がれ、18人の共同体となった今も「台所の道具」を作り続けているのです。
2004年から、柳宗理ディレクション出西窯シリーズの製作も始まり、モダンな器が多い出西窯にさらなる魅力が増した様に感じます。
出西窯の器は土というより粘土の印象が強い、シンプルで工業的な器のように思います。
その佇まいや、出西ブルーといわれる鮮やかな呉須の青はまるで欧米のもののような印象さえ受けます。
和食器にはあまり見られない轆轤ではなく型ものの工業デザインを彷彿とさせる美しい平皿が揃うのも出西窯ならではの、文化そして特徴かもしれません。
Northern Morning Storeでの取り扱い商品は少ないのですが、
是非ベーシックなカップを中心にお試しください。
*参照元(出雲観光ガイド)
https://www.izumo-kankou.gr.jp/special/1697